20年。
2017年10月25日
あっという間かな、20年なんて。
高校3年生だった20年前の10月31日、母親が半年の闘病生活の末天国に旅立っていき、
いちおう受験生の私は毎日を忙しく過ごすことで気を紛らわせてた。
大学受験に母親は関係ない、母親のせいになんかしたくないから、
自分にできるだけのことをして、きちんと結果を出したいと思ってた。
全寮制の高校で過ごしていたから、母親が日常の中にいないことには慣れていた。
もし地元で過ごしていたら、母親が入院していた半年間いったいどんな顔をして過ごしたかは分からない。
当時、私はどれくらいの頻度で見舞いに帰っていたのかをよく覚えていない。
毎週では、無かったと思う。片道3時間ほどかけて、毎回帰省届を事務に出して・・・。
母親が最後の気力を振り絞ってきてくれた、学園祭の時の記憶も、ほとんどない。
私の母が亡くなる一年前の夏には、同級生のお母さんがやはり病気で亡くなっていた。
でも、その時はまさか自分の母親が一年後に亡くなるとは少しも考えなかった。
同級生のお母さんの告別式には、クラスのみんなで三重から奈良まで出かけて行った。
カトリックの教会の雰囲気が珍しかったことを覚えている。
私の母親の告別式には、やはりクラスのみんなが愛知まで来てくれた。
知らない土地に、ぞろぞろとみんなで駅から歩いて、来てくれた。
みんなにお別れの賛美歌を歌ってもらえたのがとても嬉しかった。
いまさらながら、いい高校に通ってたんだなと思う。
授業を一日休みにして、クラス全員を担任が引率して同級生の親の告別式に出かけるなんて。
ほんといまさらながらちょっと、いやけっこう、感動した。
私の母親は、戦争で父親を亡くして、戦後の食糧難も小さな庭に畑を作ってしのいできた人だった。いいとこのお嬢様だったおばあちゃんは、一人で4人の子供を育てた人だけど、とってもかわいらしい人だった。そんなおばあちゃんを母はよく連れ出して、気遣っていた。
とっても苦労したのに、いつも人のことを優先して自分のことは後回しだったから、母が自分の病気に気づかずに手遅れになってしまったことも、私はどうしようもないことだったと思う。54年で、やるだけのことはやってしまったんだろうなって。
いや、きっともっともっとやりたいこと、あったと思う。
ほんとは、もっと自分を大切にしてもらいたかった。
それでもやっぱり、もういいよお疲れさまー、って言われて天国に行ったんだと思う。
大学に入ってから、母親のことはあまり新しい友人たちには話さなかったと思う。
寮の同室と隣の部屋の子は、二人とも三歳のころに父親を亡くしていて、
一七歳まで一緒にいられた自分が何か言えるわけもない。
いつもいつも自分に言い聞かせてた。
私は大丈夫、私はこんなにも恵まれてる、こんな痛み、大したことないって。
半年間の入院生活で、私たちはいつでもお別れをする心の準備をしていた。
突然、いなくなってしまったわけじゃない。
この数年、自分の中の引き出しを開ける作業をしてきた。
一つ一つ、当時のことをゆっくり思い出して、とりあえず泣けるだけ泣いてみる。
けっこう仕事中に思い出したりするから、旦那にバレない程度にだけど(笑)
当時は、前に進むことに精いっぱいで、泣いてる暇なんかなかったから。
おかげで最近涙腺が緩くなって困る。・・・単に年のせいかな。
たぶん最後と思われる引き出しは、高校最後の学園祭。
車いすで、すっかり疲れ切った母親の姿がショックだったことしか覚えていない。
何か会話したかどうかも、全然思い出せないことが、本当に悲しかった。
私はどんな風に見えたんだろうな、そんなことを考えながら仕事中にシクシク泣いてた。
牛の乳しぼりながら。
もう寒いから、フードを深くかぶって、マスクしてるから顔は見えないハズ。
でも結構すっきりした。
どんなに恵まれた別れであっても、やっぱ悲しいものは悲しいよね。
20年経ってやっと、当時のちっぽけな自分を慰めてる。
さて、以下の歌たちは私の自己満足の結晶みたいな、アカペラで私のテンポでフルで歌ってるから、聞いてもいいかなっていう稀有な人だけどうぞ。自分で聞いても結構キツイと思う(笑)
夜の10時に牛舎の仕事が終わってから、車の中でこっそり携帯で録画してるっていう姿を想像して笑うのがいいかと。
最初の4曲は、今年の墓参りで姉妹4人で歌った曲。当日は姉たちの声に負けてハモリきれず悔しい思いを…。こうやって聞くと、2番目と3番目の姉の声を足して2で割ったような声だな~
そしてこっそり、今一番気に入ってる動画を入れとく。