2018.8.26

2018年9月7日

8月26日の日曜日、牧師が夏季休暇で不在のため、急遽お声がかかって「恵みの証」というお題をもらい、20分程話させてもらいました(当日の出席者は10人程度)。まず断っておくことは、この内容は事前に牧師や教会の役員が確認したり、訂正を求められたりしていない、私の完全な主観に基づいたものだということです…。そして文中のカッコ内は私の心のつぶやきです(笑)

『みなさんこんにちは。・・・(以下挨拶は省略)

私はちょうど20年前の春、1998年の4月に大学へ通うため、松本に越してきました。そしてその1年後から伊那に住み、途中何年か別の場所で暮らしましたが、2006年に今度は結婚し、その相手の両親が営む酪農の仕事をするために戻ってきました。

私が生まれ育ったのは愛知県安城市という、山の無い濃尾平野(正しくは岡崎平野)、自転車でどこへでも行けるような空の広いところです。伊那市は西と東に山はありますが、松本とは違って広く開けた谷間なので、とても気に入っています。

私の両親は共にクリスチャンで、私は母のおなかの中にいる時から教会へ通っていました。きょうだいは私の上に姉が3人、にぎやかな4人姉妹です。

父はもともと静岡の生まれですが、父が生まれた年、1945年に静岡はアメリカ軍による空襲を何度も受け、父たちの家も焼け、しばらくして親戚のいる安城市へ引っ越したそうです。父の父親、私の祖父は戦中は職業軍人として何度も戦地へ行き、誰よりも先に敵を見つけるため、馬で一番前を走っていたそうです。時にはその刀で人を殺したこともあったのではないかと思います。戦後、本来は手放さなければならない刀を祖父は屋根裏に隠し、血のあとがついたままの日本刀を父は今でも持っています(たぶん)。

私が知る父方の祖父の姿は、ただ黙ってキセルをふかしながら薄暗い縁側で外を眺めているような静かな姿ですが、戦後、建築板金屋として職人を何人か雇い、そのころはまだ珍しかったバイクを職人たちに使わせ、地域に活気を取り戻すためにテナーサックスを演奏するなど、ずいぶん活動的な人だったようです。大好きだった馬の話など一度も口にすることなく、祖父は私が小学生の時にがんで亡くなってしまいました。

私の父は、家にあったバイクを中学生のころから乗って遊んでいたような人ですが、若いころにキリスト教に出会い、教会の牧師の紹介で母と出会いました。きっとその時には、祖父と同じ建築板金の仕事をしていたはずです。

父の母親、私の祖母はとても熱心な浄土真宗の信者でしたが、改宗した父とその家族となった母や私たち姉妹のことを大切にしてくれ、私たち家族も祖父の亡くなった後、毎年の法事には欠かさず集まり、一緒にお坊さんのお経を聞き、形だけとはいえ一緒に手を合わせていました。祖母はもう10年以上前に亡くなってしまいましたが、今年の春には、父のきょうだいもそろそろ高齢になってきたので、祖父母のための法事をこれで最後にしようということで親戚が集まり、久しぶりの再会ににぎやかな時を過ごしました。祖母には、多くのことを教えてもらいました。

一方、私の母は敗戦の2年前の8月9日生まれでした(愛知県岡崎市)。母の2歳の誕生日の日に長崎に原爆が落とされ、その数日後に日本は負けを認めましたが、母の父親は戦地から帰ってくることはありませんでした。母の家族は戦後、ミッション系の母子寮に入ったことでキリスト教と出会ったそうです。私たちが知っていることはそれくらいで、詳しいことは良く知りません。まだ生きている母のきょうだいたちに、いつか戦後の話を聞いてみたいと思っています(なるべく早く…)。

母は女手一つで4人の子供を育てる母親のことをいつも気にかけ、中学生のころから事務の仕事をしていました。そしてその流れのまま通信制の大学を卒業した後は学校の事務員として働きました。しかし一つの学校ではなく、毎年どこかでお産のために休む人がいるとその代理として、一年の臨時職員として勤めていたので、数多くの学校の内情をよく知り、教育問題にも強い関心を持っていました。

年老いていく自分の母親を心配していたこともあってか、母は地域の友人たちと「高齢化社会研究会(高齢研と呼んでいたので、実際の名前はうろ覚え)」というグループで各地の老人ホームなどを訪問・視察し、また自分たちで地域のお年寄りたちを招いてお茶会を開いたりしていました。

私も地元にいた中学生まで、母と一緒によくお年寄りの方々とおしゃべりしていました。おかげで、私は体が不自由だったり、自分の意思をうまく伝えられない人とも特に苦にならずに接することができるようになったと思っています。

母は教会の役員として、婦人部の一員として、教区内の会合によく参加していましたし、父親が靖国神社に祭られていることから、「キリスト者遺族の会」の一員としても、毎年場所を変えて各地で開かれる集会にできる限り参加していました。

実は松本教会も、私が小学生のころに母と姉とともに訪れたことのある場所です。偶然そのことを知った時私は、来るべくしてここに来たんだと思いました。

しかし、様々なことに関心があり、変な言い方ですが、多くの人の悲しみを自らの原動力にしていたような母は、自分の体の不調に気付きながらも十分な検査を先延ばしにしていた結果、97年の秋に54歳の若さで亡くなりました。卵管のがんという自覚症状のないものに始まり、食事も十分に食べられなくなって検査を受けたときには全身に転移していて手が付けられない状態でした。入院から半年のことでした。

私はそのとき三重の全寮制の高校の3年生で、夏休みが終わって学校の寮に帰ってからも、何度か週末に帰省しましたが、母は最期まで「そんなに無理して帰ってこなくていい」と言っていました。自分のために誰かに何かをしてもらうのが嫌で、生命保険には入っていなかったし、告別式もしなくていいという人でした。実際は、高額の入院費を補う保険金がなくて父や姉はとても大変な思いをしたし(たぶん)、誰にも知らせないなんてことはできるはずもなく、親戚と親しい人たちで教会に集まり、告別式をしました。母に教えてもらったことは数多くありますが、私は母を通して神様と出会うことができたと思っています。

たとえクリスチャンホームに育っても、一対一で神様に出会うことが、誰にでも必要なことだと私は思います。私は生前の母の他人に対する献身的な姿に、ある日「信仰」の意味を教えられる事があり、洗礼を受けるという行為を受け入れることができました。また、朝の小さな祈りの中に、自分の中の「ちいさな自分」を見つけ、神様の存在を感じることができました。

それまでの私にとって洗礼は、教会員になるということ、つまり、いろいろな役を任され、自分や家族の都合よりも教会を優先し、様々な問題に立ち向かわなくてはならない、めんどくさい以外の何ものでもありませんでした。特にクリスチャンホームに育つと、小さなころから教会の抱える問題を見てきていますから、出来れば関わりたくない、というのが本音です。

牧師も教会員もみんな一人の人間で、理想と現実があり、教会と会社での顔があり、子供たちは、日曜日にどこで何をしているのか友達に話すことができないという悩みを常に抱えています。でも、それらの問題がどうでもよくなる程、母の信仰は私に影響を与えました。

父も母の死を通してアクが抜け(ごめんおやじ)、聖書の勉強をし、60歳の時に牧師として働き始めることを許され、私は父が初めて勤めた教会で小さな結婚式を挙げさせてもらうことができました。親戚だけの、本当に恵みにあふれた結婚式でした。私の結婚したパートナーは、「聖書や讃美歌は好きだけど、キリスト教は嫌いだ」と昔から言っている高校の同級生ですが、その両親もそれぞれキリスト教と関わりがあったり関心を持っているので、私がこうして教会へ集うことを認めてくれています。

 

ところで、日本では「あなたの宗教は何ですか」と知り合った人に聞くことはないですよね。海外では大抵の国で、宗教はその人の生活や考え方にとても大きな影響を与える、その人のことを考えるための大切な要素であるため、親しくなると直接何を信じているかを尋ねるか、本人が住む場所または服装などで自分の信じているものを主張します。

しかし日本はその点、宗教について更には政治的思想など、その他の主義・主張についても日常的に語ることが嫌われる傾向にあります。そのために多くの人が実生活において本音を語らず、最近ではその反動としてインターネットなどの架空の空間でありとあらゆる感情をむき出しにしたやり取りが繰り広げられていたりします(私自身も例外ではないと思う)。

日本人の無宗教というより日本人独特の宗教観によって、社会全体が誤魔化されているような気がして、私は今の日本の社会がとても気持ち悪く感じます。

そうなってしまった要因の一つに、戦後の日本の政府の方針や教育があると私は考えています。教育と言っても、学校だけでなく各家庭や地域社会、職場において、すべてが関係し影響しあっているもので、今すぐに何かを変えようと思って変えることができるとは思っていません。

ただ、私たちに今足りないものは、違う意見や考え方を持つ人と、上手に話し合う力だと思います。それは何度も何度も繰り返し話し合うことによって身につくものです。自分とは違うものを嫌う傾向の強い今の日本の社会では、「私クリスチャンなんです」というたったひとことを言うことができません。身近なところから、自分が理解できないと思う相手に対し嫌悪感を捨て、好奇心をもって接することができれば、何かが変わっていくように思っています。

最後に、昔ある人が私に言いました。「信仰は、ただ祈ればいい、扉をたたけば開かれるというものではない」。私はそれは、「祈りを持っていかに働くことができるか、扉をたたく前にいったいどれだけの努力をすることができたかが大事なのだ」ということだと理解しています。まだまだ未熟で、思ったことの半分もできていない私ですが、神様に頂いた恵みを十分に生かすことができるよう、これからも努力したいと思います。

きょうは本当にありがとうございました。』

讃美歌

Ⅰ-308番「いのりはくちより」

21-386番「人は畑をよく耕し」(Ⅰ-422「われらたがやし」)

21-227番「主の真理は」(Ⅰ-85「しゅのまことは」)

聖書

コヘレトの言葉 3章18~22節

『人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところへ行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。』

マタイによる福音書 3章13~17節

『そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降(くだ)ってくるのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」という声が、天から聞こえた。』

 

考える力を与えられた人間。一人の人間として、洗礼を受けなければ「わたしの子」と呼ばれなかったイエス。常に神を裏切る可能性を抱えつつもがく私たち。

こんなことを書いている今この時も、各地で台風や地震の被害に苦しんでいる人たちがいること、世界中でも様々な争いによって傷ついている人たちがいること、本当に胸が痛みます。どうか、どんな困難からも立ち上がる力が与えられますように。たとえ立ち上がれなくても、明日のために心休める場所を見つけることができますように。