2月11日は、以前は紀元節、今は「建国記念の日」と言われるけれど、一部の人たちの間では、「思想・信教・教育の自由を守る」集まりが持たれる。

私としては、なぜ自分がこの集まりに足を運ばずにはいられないのか、はっきりとわかっていない。20年前から。亡くなった母親の影を探しているのか、底知れない危機感に突き動かされているのか。

でも、先日なんとなく探っていた本棚の中から、薄い黄色の冊子を見つけた。それは母の遺品の中から、私が選んで持ってきたものだけれど、その存在は全く覚えていなかった。

表紙には大きく『2・11の30年「愛知県における〈建国記念の日〉不承認運動の記録 1966年~1996年」 2・11思想・信教・教育の自由を守る 愛知県民集会実行委員会編』とある。

そしてそこに書かれていた文章を見て、わたしは混乱した。その文をそのまま(漢数字を英数字に直して)書いてみる。

2ページ:『はじめに・・・・・・第20回集会(1986年)に際して

「建国記念の日」制定が旧「紀元節」の復活にほかならないとして、これの不承認を主張し、軍事主義国家、軍事大国化のための国民の思想動員・国民の意識の統合を企てるあらゆる動きに反対する、私たちの2・11愛知県民集会は今年で20回目をむかえる。

この間、「明治百年祭」、靖国神社国営化の企図、元号法制化の強行、そして中曽根内閣になってから、「戦後総決算」を唱いながらの臨調行革路線・臨教審を中心とした「教育改革」など、私たちが19年前に危惧した事態が急ピッチで進められて来ている。昨年は中曽根首相が「建国記念の日」奉祝式典に戦後歴代首相として初めて出席、「建国記念の日」の「紀元節」としての実質化がはかられ、8月15日には、中曽根首相の靖国神社への公式参拝が強行された。

また、一応廃案になったとはいえ「国家機密法案」の再提出がもくろまれており、今年の4月29日には、「天皇在位60年」記念式典が計画されている。

こうした一連の動きは、日本の軍事大国化の総仕上げを目指すものにほかならない。

私たちが続けてきた、そしてこれからも一層粘り強く続けていく「建国記念の日」不承認の運動の意義は、今日のこうした日本の情勢の中でますます大きなものとなってきているといってよいであろう。』

5ページ:1967年第1回集会について『2月11日「合同公開講義」は名古屋大学経済学部講義室で行われ、高校生・学生・一般市民・小中高大学の教職員など約1000名が出席した。』

7ページ:1968年第2回集会について『この集会は、「紀元節」不承認の運動に取り組んだ6団体の呼びかけに応じた宗教者平和協議会・民間放送労連・愛知県学連・いずみの会・新婦人・平和委員会・劇団演集・名演・労音・愛知私教連・愛労評・名古屋大学院生協議会・名大五者協事務局・日朝協会など多くの団体が構成した実行委員会の主催により開催され、これ以後の「紀元節」不承認運動の発展にも大きな意味を持つものとなった。また、この集会には、東京・大阪・京都・静岡・豊橋など各地の同趣旨の集会からのメッセージがよせられている。』

 

まず、1986年の文を見て、いったいいつの話なのか、混乱するのはわたしだけではないと思う。首相の名前が違うだけで、内容はまるでリアルタイムのようだ。その後、第一回からの様子がずっと30年分書かれていくわけだけれど、当初は1000人、多いときは2400人の参加者があり、その後は200人、150人と減少するものの、1995年には300人余名が参加して、「戦後50年を生きた一歴史家の反省」という内容の講演を、東京経済大学の教授が行っている。

この流れを知らずに、ただの休日として「建国記念の日」を過ごしてしまっていいのか?という問いがやはり私の中で大きくなった。

日本を好きになりましょう、天皇は象徴なんだし、建国記念日を祝わない国はほかにはないよ、何が問題なの?そんなに熱くなるほどのこと?

そんな声があちこちから聞こえてくる。でもやっぱり、わたしは自分の胸の中に何か違和感を感じる以上は、2月11日を特別な日として覚えておきたい。

また、こんなにも強い思いを待った人たちがいたのに、果たして何か変えられて来たのか、現状を見る限り、次の世代へ伝えきれていないじゃないか、私はこれからどうするんだ、という問いにも、向き合わなきゃいけないと思う。

 

今年の集会の内容については、また改めて書きたいと思います。